空蝉の雑記帳

~史跡散策や御朱印収集など、歴史好きな管理人の記録帳です~

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浄妙寺 - 足利貞氏公墓 -



鎌倉散策の折、『鎌倉五山』 の第五位である浄妙寺(じょうみょうじ)に参拝しました。こちらには足利貞氏の墓と云われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。

足利家家紋
足利家の家紋 『丸の内二つ引』

足利貞氏
足利貞氏Wikipediaより転載)

足利貞氏は鎌倉幕府後期の御家人で、室町幕府初代将軍足利尊氏の父です。文永10年(1273)に足利家時の嫡男として生まれ、10歳の時に父が亡くなると家督を継ぎ、執権北条貞時の偏諱を賜って貞氏と名乗りました。貞時の死後に出家したとされ、嘉元3年(1305)の嘉元の乱の際には、連書であった北条時村を討った海老名秀綱の預かり役を務め、また浄妙寺の再興や落雷で焼失した足利鑁阿寺大御堂の再建を行っています。元弘元年(1331)に死去、嫡子高義は早世のため、次子の高氏(のちに尊氏)が家督を継ぎ、その2年後に鎌倉幕府に反旗を翻して六波羅探題を攻め、鎌倉幕府を滅亡させることになります。

足利貞氏公墓
足利貞氏公墓(宝篋印塔)


浄妙寺は臨済宗建長寺派の寺院で、詳名は『浄妙広利禅寺』と言います。
文治4年(1188)に足利家兼を開基、退耕行勇を開山にして極楽寺を創建を云われており、その後、月峯了然(蘭渓道隆の弟子)が浄妙寺と改名し、臨済宗建長寺派の寺院としました。至徳3年(1386)に『鎌倉五山』の第五位に列しますが、その頃は七堂伽藍が完備された塔頭23院を数える大寺院になっていました。しかし度重なる火災、兵火に遭い、その度に再建を繰り返し、現在は総門、本堂、客殿、庫裡だけが残っています。

浄妙寺本堂
本堂

もちろん、庫裡で御朱印を頂きました。
格式ある寺院の御朱印を頂くと、なんだか嬉しいものです。

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浄妙寺
神奈川県鎌倉市浄明寺3-8-31
地図

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島原城



今回は島原城です。
嫁が長崎出身なので、嫁の実家に帰った時に島原半島まで足を伸ばし、島原城を訪ねました(7年前ね ^^;)。

元和2年(1616)、大阪の陣で戦功あった松倉豊後守重政が肥前国日野江4万3千石を与えられ入封すると、一国一城令に従って手狭な日野江城と原城を廃し、新たに築城したのが島原城です。築城工事は元和4年(1618)から始まり、寛永元年(1624)に完成、しかし石高以上に荘厳な城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うとともに幕府からの指示で徹底的なキリシタン弾圧を断行したことが、寛永14年(1637)の島原の乱の主因となりました。2代藩主の板倉長門守勝家は乱の鎮圧後にその責を問われ、大名としては異例の斬首となり改易、代わって高力摂津守忠房が島原藩4万石に入封して乱後の混乱の収拾に成功、その後、高力家2代、松平(深溝)家5代、戸田家2代、松平(深溝)家8代と続いて明治を迎え、明治7年(1874)の廃城令により民間に払い下げとなり、明治9年(1876)に天守閣などの建造物は破却されました。しかし昭和35年(1960)に西櫓が復元されたのを皮切に、天守閣、巽櫓、丑寅櫓と相次いで復元されて今に至ります。平成18年(2006)に日本100名城の91番に認定されました。

島原城天守

島原城天守
天守
天守は独立式層塔型五重五階で、破風を持たない独特の構造となっています。昭和39年(1964)に復元され、内部は藩政時代の資料やキリシタン資料を展示する歴史資料館となっています。

島原城西櫓
西櫓
昭和35年(1960)に島原城の建造物としては最初に復元された三層櫓で、天主から西の方角に位置します。現在は日本の名城画を多く展示しています。

島原城巽櫓
巽櫓(たつみやぐら)
昭和47年(1972)に復元された三層櫓。天主から辰巳(東南)の方角に位置します。地元出身の彫刻家である北村西望さんの作品を展示する西望記念館となっています。

島原城丑寅櫓
丑寅櫓(うしとらやぐら)
昭和55年(1980)に復元された三層櫓。こちらは天主から丑寅(北東)の方角に位置します。

島原城御馬見所
御馬見所
もとは三の丸の調練所にありましたが、本丸に移築されました。藩主が藩士の訓練視察に使ったもので、近世の馬見所としては希な建造物です。

島原城松倉重正公御祭祀の祠
松倉重正公祭祀の祠
松倉重政は島原城を築城した後、寛永7年(1630)に島原半島にある小浜温泉で急死しています。あまりの悪政に見かねた幕府によって毒殺されたとか悪政に耐えかねたキリシタンや領民に殺害されたとも云われています。

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島原城
長崎県島原市城内1丁目1183-1
地図 | HP

石田寺 - 土方歳三墓所 -



東京都日野市にある石田寺(せきでんじ)を参拝しました。
この地はかつての武蔵国多摩郡石田村で、土方歳三の生誕地です。

土方歳三
土方歳三Wikipediaより転載)
写真は洋装で、明治2年(1869)に箱館(現在の函館市)で撮影したものと云われています。
かなりのイケメンだったようで、女性絡みの逸話がいくつか残されています。

土方家家紋
土方家の家紋 『左三つ巴』

土方歳三は天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田村の豪農であった土方義諄の末子として生まれました。諱は義豊。しかし父は歳三が生まれる3ヶ月前に、母は歳三が3歳の時に結核で亡くなったため、次兄の喜六に育てられています。生家が販売していた『石田散薬』を行商しながら剣術『天然理心流』に入門し、ここで近藤勇沖田総司と出会います。文久3年(1863)、幕府が将軍徳川家茂の上洛に合わせて京都警備の浪士を募った際、歳三は近藤勇や沖田総司らと浪士組に参加、その後浪士組の内紛や分裂によって新撰組が結成され、歳三は副長となりました。会津藩主松平容保が京都守護職に任じられるとその庇護の下に新撰組が置かれ、尊王攘夷・倒幕運動で揺れる京都の治安維持に努めました(池田屋事件は有名ですね)。慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発すると、旧幕府軍として甲斐勝沼、宇都宮、会津と転戦し、仙台で榎本武揚と合流すると北海道へ渡り、陸軍奉行並に選任されて箱館政府に参加します。明治2年(1869)、箱館戦争が始まると、孤立した弁天砲台を救うために出撃しますが、一本木関門で銃弾を受けて戦死しました。享年35歳。

土方歳三銅像
土方歳三銅像
高幡不動尊にあります。新撰組の雄姿の銅像で、平成7年(1995)に建てられました。


石田寺は真言宗智山派の寺院で『愛宕山地蔵院石田寺』と号します。
康安元年(1361)に慶興が吉祥坊と号して開創、天文13年(1544)の洪水で普濟寺の方から観音像が流れ着いたことから観音堂を立ててこれを安置し、文禄2年(1593)に慶心沙門が本堂を建立して石田寺を号したと云います。江戸時代には金剛寺(高幡不動尊)の末寺として、御朱印寺領7石を拝領しました。現在は多摩八十八ヶ所霊場の86番札所、日野七福神の”福禄寿”となっています。

石田寺山門
石田寺山門

石田寺山門山号額
山号額
山号『愛宕山』とあります。

石田寺寺号額
寺号額

石田寺観音堂
観音堂
十一面観音像が安置されています。観音堂が本堂を向かい合い、北向きに建てられていることから『北向観音』とも言われています。


土方歳三義豊之碑
土方歳三義豊乃碑
土方家の家督を継いだ歳三の兄の喜六の曾孫にあたる康氏が、昭和43年(1968)に明治100年を記念して建てたものです。

2015031001.jpg
土方歳三墓碑
平成12年(2000)に建て替えられました。墓碑には歳三の写真が飾られており、献花が絶えません。

土方歳三墓碑(戒名)
戒名は 『歳進院誠山義豊大居士』

土方歳三墓碑(側面)
墓碑には『俗名 土方歳三義豊 明治二年五月十一日 箱館一本木関門に於て戦死 享年三十五才』とあります。

参拝を終え御朱印を・・・と思ったのですが、財布には小銭がなく千円札もない!!
1万円札では失礼になるので残念ながら諦めました。
いつでも足を伸ばせる距離だし、また伺うことにします。

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石田寺
東京都日野市石田1-1-10
地図



青山忠俊



青山氏家紋
青山氏の家紋 ”無字銭”

生没年  天正6年(1578) ~ 寛永20年(1643)
  青山忠成
  天方通興娘(忠成正室)
幼名  伊勢千代
別名  藤蔵、藤五郎
官位  伯耆守
正室  大久保忠佐娘
  青山宗俊(嫡子)
   青山宗祐(大久保忠佐養子)
   青山忠栄(九男)
   青山正俊(十男)
   女(滝川正利正室)
   女(稲葉一通継室)
   女(川口正信室)
   女(中根正次室)


■ 略年表

天正6年(1578)  遠江国浜松で生まれる。
天正18年(1590)    小田原征伐に父と共に参陣、初陣を飾る。
文禄4年(1595)  兄の忠次が天然痘(一説には肺炎)のため逝去、嫡子となる。
慶長5年(1600)  関ヶ原の戦いでは、秀忠の別働隊(東山道軍)に父と共に従軍、真田昌幸の上田城を攻める。
   従五位下伯耆守に任官。
慶長8年(1603)  徳川家康が将軍に就任。
   常陸国江戸崎に5千石を領す。
慶長9年(1604)  嫡子宗俊が生まれる。
慶長10年(1605)  徳川秀忠が2代将軍に就任。
慶長12年(1607)  土井利勝、酒井忠世と共に、竹千代(家光)の傅役となる。
慶長15年(1610)  書院番頭を拝命。下野国鹿沼に5千石を加増され、大名に列する。
慶長17年(1612)  3代将軍継承問題では家光側に付いて奔走、家康の裁断で家光と決まる。
慶長18年(1613)  父忠成が逝去、遺領を引き継いで江戸崎藩主(3万5千石)となる。
元和元年(1615)  大阪夏の陣では秀忠軍に参陣し、天王寺・岡山の戦いで軍功を上げる。
元和2年(1616)  酒井忠利、内藤清次と共に家光付けの年寄を拝命。
元和6年(1620)  武蔵国岩槻藩5万5千石に増転封。
元和9年(1623)  徳川家光が3代将軍に就任。
   家光より勘気を被り、老中職を罷免。
   上総国大多喜2万石に減転封。
寛永2年(1626)  上総国大多喜2万石を除封。
   以降、嫡子宗俊と共に下総国網戸、相模国溝郷、遠江国小林を経て相模国今泉で蟄居。
寛永9年(1632)  大御所徳川秀忠逝去。家光より許しが出るが、これを固辞。
寛永11年(1634)  嫡子宗俊が再出仕。
寛永20年(1643)  逝去。66歳。


家光の傅役となった土井利勝、酒井忠世、青山忠俊は、後年になって”寛永の三輔”と評されています。その三輔を描いた三幅対の画像が残されていますが、酒井忠世は言葉少なく謹厳、青山忠俊は合わせ鏡で衣装を直す家光を諸肌脱いで諫言する剛強さ、両人を煙たがる家光を盃を進めながら諫言の正しさを諭す姿がそれぞれ描かれています。

家光に老中職を罷免された理由は明らかではないですが、”徳川実記”には”ゆえありて御気色こうむりて”とあります。剛強な性格なため、家光を公の場においても諫言したとされ、度重なる諫言に家光が面目を潰されたと感じたのかもしれません。秀忠の死後に家光が再出仕を許したのは、忠俊の諫言が正しかったことに気付いたからではないでしょうか。忠俊はこれを固辞しましたが・・・。その代わりに嫡子の宗俊は再出仕後に書院番頭から大番頭を経て、正保5年(1648)に信濃国小諸3万石の大名に復列しています。

■ 史跡

青山神社  篠山城の本丸跡に、明治15年(1885)に創建された神社で、青山忠俊と青山忠裕(篠山藩中興の英主)が祭神。
兵庫県篠山市北新町2-3 地図
金王八幡宮  ここの社殿は、慶長17年(1612)に家光の将軍継承成就を祈願し、忠俊と春日局(家光の乳母)が造営したものです。
東京都渋谷区渋谷3-5-12 地図 HP
常泉院  相模国今泉は忠俊が晩年を過ごした場所。元和年間に忠俊を開基として伽藍を建立し、忠俊の十一重宝経塔や数代の位牌が現存している。
神奈川県海老名市上今泉4-3-1 地図
天応院  忠俊の墓所。相模国溝郷で蟄居の際、当院の前に一時居住していたとされます。
相模原市南区下溝780-1 地図 HP
天応院 青山忠俊墓所
青山忠俊公墓所


天応院 - 御朱印 -



前述の記事の通り、天応院(てんのういん)で御朱印を頂きました。

天応院 御朱印

天応院は曹洞宗の寺院で、御本尊は”虚空蔵菩薩”です。
境内の薬師堂に”薬師如来”を奉じており、関東九十一薬師霊場の19番札所となっています。

天応院
相模原市下溝780-1 地図


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